信じてきたものたちは本当に美しかったのか
努力は美しいだろうか。
最近見えてきたことがある。
人に認められるための努力は、さほど輝かしくないようだ。
受け手側に向かうアピールベクトルが受け手側からの報酬ベクトルに変換される過程で、非持続性を有する処理を介すことに問題があるのだろう。
もう少し掘り下げれば、その処理に大きく寄与するパラメータが十分に適切な値で満たされていなければ、効果は小さくなるばかりである。時系列に沿った成果の変動のしやすさ(オフセットの定常的な変化率)であったり、興味関心と必要性にかかる多次元的なウェイトであったり、とにかく最適化は困難だ。
そもそも、両者の間で共有されるのは、それらのパラメータのうちのほんの一部だけであり、絶望的と言ってもよいかもしれない。
ここに生じる一過的な高価値は、永続を保証されない。
一方で、報酬を他に求めない努力は、まず構造がシンプルで捉えやすい。ゆえに観測者の処理は安定している。
努力する人間は、ただ自身と向き合っていればよいのだ。
観測者は、強制的な入力による謎の処理に手間をかける必要もなく、当然、価値の保証されないやりとりを選択する危険性も排除できる。
ただ好みのインスタンスを見つけ、それを分析するだけのシンプルなお仕事である。
さて、読者は何のために努力をしているだろうか。
私はもう、認めるものしか認めない。